古代エジプトとバビロニアの信仰 第三章 3-2

『古代エジプトとバビロニアの信仰』第三章 人間とあの世の不滅の部分 3-2

※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus

『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章  1-1 1-2 1-3 1-4 1-5 1-6 第二章 2-1 2-2 2-3 2-4 2-5 第三章 3-1

 古代エジプト人が構築した「人間の本質」に関する理論は、極めて複雑だった。彼らにとって人間は多くの構成要素から成り、それぞれが永遠に生きうる存在だと考えられていた。こうした複合的な人間観は、民族自体が混成であったこと、過去から継承された要素を廃棄・変更しないという保守的な傾向から生まれたものだろう。「人間を構成する要素」は、異なった人種それぞれの要素に由来するものが含まれていた。それらは互いの整合性や矛盾などを顧みられることなく国家宗教に取り込まれ、もしくは統合されていった。これらの諸要素を区別することは困難で、エジプト学者たちも区別しようと試みたことはない。もし要素すべてを列挙するなら、それは古代から伝わってきた人間の諸構成要素をただの一つたりとも漏らさないという意図を持ったものと考えられる。

 とはいえ、人間の構成要素の中には明確に定義され、宗教思想において重要な地位にあったものも存在する。その筆頭が「カー(Ka)」、すなわち「ドッペルゲンガー(分身)」だ。「カー」という概念の背後には、粗削りながら宇宙に対する哲学的思考が存在していた。可視世界における「影」と同様に、カーもまたその存在から切り離すことのできない写し身だ。物体に必ず影があるように、カーもまた対象を心に思い描いたときにできる影のようなものだ。だが、エジプト人はそれが自らの心の産物にすぎないということを認識していなかった。彼らにとってカーは現実的・物質的な存在で、それ以上に実在的だった。本体の複製物・顕現であるにもかかわらず、そこから切り離されても存在でき、本体とは別の場所でその代行を務めることもできた。それどころかカーこそが本体に生命と形態を与えるもの、すなわちその本質と人格を構成する存在だと見なされていたのだ。こういった理由で、カーはしばしば「名前(レン)」と置き換えられると考えられた。古代エジプト人にとって「名前」もまた存在を成り立たせる本質そのもので、名前なしでは存在できないと考えられていた。つまり、カーは一種の「霊的な反映」ではあるが、具象的な形を持った霊的反映だったと言える。

 プラトンの「イデア論」は、カーに関するエジプト教義の最終的な発展形だ。イデアとは万物を作る際の原型であり、抽象的でありながら同時に具体的でもある。近代の哲学者たちはそれを「神の思考の具象化」だと解釈しているが、古代エジプト人は、その概念の具象的側面しか見ていなかった。カーが自己の思考の産物だと、彼らには思いもよらなかったのだ。カーは神々と人間の世界において、目には見えないが現実的かつ実体的に存在するものと考えられていた。彼らが知るすべての物事はそれぞれのカーを持っていたが、それが人間の思考から生まれたとは認識されていなかった。

 ここでもまた、象徴の問題が浮上する。象徴とそれが表すものとの区別が混同されたことで、抽象が具象へと置き換えられてしまった。人格という抽象的概念が実体を持つものとして捉えられ、物質が備えるすべての属性が付与されたのだ。「名前」が独立した個性を持つ力として考えられたのと同様、カーもまた、キリスト教における天使たちと同じような「個的実体」として位置づけられていたのである。

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