
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第三章 人間とあの世の不滅の部分 3-4
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 1-1 1-2 1-3 1-4 1-5 1-6 第二章 2-1 2-2 2-3 2-4 2-5 第三章 3-1 3-2 3-3
ミイラの復活信仰と馴染まなかったのは、復活した人間が「オシリス」―かつての物質的な自己ではなく、神オシリスと実体において同一となる―という信仰だった。だから、ギリシャ哲学がエジプト神学の体系化と解釈を試みた時代には、ミイラの復活という概念は姿を消すこととなった。
すでに見た通りクウ(Khu)は神の知性とされ、一時的に人間の魂に包まれている。その魂にも霊(spirit)という皮が必要で、霊が血管に生命の息吹を送って初めて魂は肉体の中に宿る。ヘルメス文書で「肉体・霊・魂」は人間と獣が共に持つものだが、神の知性は人間にのみ備わるとされた。「神の知性」は本来のエーテルの火の衣を脱いでいても、依然として神の霊そのものだ。神の知性は常に人間の魂を神の位置まで引き上げようとし、肉体的な情欲や欲望から魂を清めようとする。だが肉体は絶えずその知性と争い、魂を自らの水準に引きずり下ろそうとする。魂が戦いに敗れたら、肉体が死んだあと知性は神の元へと戻っていくが、魂は天の法廷に引き出される。そして良心―つまり心臓―に告発されて有罪となり、罰を受けることになる。罪の鞭を受けて嵐の中に投げ出され、天と地の間に吊るされて彷徨う。あるいは邪悪な悪霊の姿となって人間や動物の体に入り込み、殺人や狂気へと駆り立てることもある。しかし、長い長い苦しみの末、ついに終わりが訪れる。魂は「第二の死」を迎え、完全に消滅するのだ。
一方、神の知性に耳を傾け、肉体の欲望に打ち勝とうと努力してきた善き魂は、死後に報われることとなる。神の知性に導かれて空間を旅する中で宇宙の秘密を学び、この世ではわからなかったことを理解していく。そして他の世界でのものを含めて「学び」が完了したとき、魂はついに神との対面を許され、言葉に尽くしがたい栄光の中に溶け込んでいくことができる。
こういったエジプトのヘレニズム的哲学が、アレクサンドリアのキリスト教、そしてアレクサンドリア経由でヨーロッパのキリスト教思想にどれほど深い影響を与えてきたか、改めて言うまでもないだろう。その痕跡は新約聖書の中に見出せるかもしれない。いずれにせよ、明らかにキリスト教的な心理学の多くはエジプト哲学を源泉としている。私たちは今でも長い時を経て広まっていたエジプトを起源とする思想の影響を受けているのだ。その内容が真実でも誤りでも、その思想は私たちが過去から受け継いだ遺産の一部だ。

